愛犬が怪我をした。

※長文です。

愛犬が怪我をした。

半分、愛犬のオッチョコチョイの性質がもたらした事故だが、人の悪さも半分ぐらいは原因だ。

いや、愛犬のオッチョコチョイは飼い主、及び、周囲の人がシツケをしっかりしないのだから、全部ヒトのせいだ。

家の前を電気工事をやると、業者の人が挨拶に来た時、私は

「吠え癖の悪い犬がいますので家のなかに入れておきます」

自嘲気味に言ったが、それは「私はバカです」と言ってるようなものだ。

そんな私でも愛犬の怪我にはとても動揺した。

動いて揺れて定まる気配がまるでない。

愛犬と朝の挨拶時、いつもと様子がおかしいことに気づいた。

下顎が左にズレていて、舌が左下にダラン..と垂れている。

ヨダレは出っ放し。

何かあったのか?と愛犬の下顎に手をやると、愛犬は悲鳴をあげた。

骨が折れている、少なくとヒビは入ってるかもしれない..

何かあったことを認めると私は反射的に「大丈夫、大丈夫、大丈夫..」と愛犬に声をかけた。

私が寝てる間に愛犬に何かあったことは間違いなく、しかもかなりの負傷をしている。

私は悲し過ぎて怒り狂った。

いつもと同じことを、習慣をこなしながらも内面は怒りしかなかった。

見るもの全てが腹立たしくなった。

自分を含めた全ての人を殺したいような気持ちになった。

行き過ぎた感情だとは思うが、怒りで気持ちが到底落ち着かないような感じだ。

いつもうるさいぐらい吠え、うざったいぐらい動きまわる家の犬。

うるさい、うざったいぐらいが丁度良いのだ。

犬は元気の塊だかりだ。

元気が全て台無しになったような按配に、気落ちするを通り越して激しい怒りを感じた。

こんな怒りを感じていたらもっと災難を招いてしまう。

こんな怒りを感じていたら日常生活に支障をきたす。

と感じながらも、冷めない怒りに困っていた。

アンガーマネジメントという横文字があるけど、
それさえも気づいたら壊してしまう怒りに襲われたらどうするんだ?


私はその日のうちに神社にお参りに行った。

犬の負傷が最小限に済むように、元の通りに回復するように、お祈りした。

神を冒涜するのが趣味の私でも、そんな私でも受け入れてくれる神社がある。

そんな私でも受け入れてくれる神社=誰でも受け入れてくれる神社。

帰りに山の高いところを流れる川に頭を突っ込んだ。

頭を突っ込み、10秒数える。

顔を洗う。

その時、やっと怒りから少し解放されたように感じた。

頭を冷やすとはよく言ったものだ。


家族に事情を聴くと、兄がエサを投げたらそれを追いかけ、コンクリート階段にぶつかったらしい。

エサは下にソっと置くべきなのはもちろんだ。

でもエサに気をとられるあまりにコンクリートに激突する愛犬も、どれだけそそっかしいんだ?と思った。

それを聴いて私は少し安心した。

他の誰かに故意に傷つけられた可能性もあると思っていたからだ。

よく吠える犬なので必要のない敵をわんさか毎日生産している。

犬の吠え声でご近所でトラブルがあった事故ニュースもたまにあるし、そういう可能性もあると思っていた。

または家族の手荒な扱いで必要のない怪我を負わされたとも予想していた。

しかし、事情を聴いて少し安心した。

エサを投げてジャンピングキャッチさせるのは私もたまにやっていた。

でもそれは愛犬の調子を見ながらやっていた?と自分ながらに思う。

今回、兄がエサを投げたのはちょっと雑過ぎやしないかと思う。

雑な扱いと犬のしつけを怠った飼い主及び周囲の家族..

それが今回、負傷につながったというところだろう。

愛犬はもう10年を越える頃の年齢なので、愛犬の若い感覚と肉体の衰えのギャップがコンクリートに激突させたのかもしれない。

犬のしつけに関しても飼い主ではない私も、しつけようと試みた時期があったが、続かなかった。

しつけるとは本当に根気がいる。

ロクでもない存在の自分が偉そうに犬にあーだこーだを命令していることも、気にかかった。

犬の自由を台無しにしてるようにも思えた。

私が飼いだした犬ではないし、途中でしつけをあきらめた。

しかし、結局しっかり躾けることが犬のためになるのだ。

私が犬を飼う時は、命をかけて躾けることにしよう。


次の日、また神社にお参りに行った。

10円玉を投げ入れ、手を合わせた。

目を閉じて心のなかで言った。

「愛犬の怪我が回復しますように..」

その時、

「ハイヨー」と声が返ってきた。

何度もお参りに行っているうちに、
声が通じたのかもしれない。

いや、神様もお祈りの内容を吟味してるのかもしれない。

神様や祈りを信じてるわけではない。

一応の一連の流れとして、ただやっているだけだ。

それでもその神社には1ヵ月に1回は行っている。

行くまでの山道や景色が気持ちよく、原付散歩がてらに丁度良いからだ。

金もかからないし、お祈りという行為は決して悪い行為ではない。

そこの神社はとても高いところにあるが、
敷居は驚くほど低く、誰でも気軽にお参りできる。


負傷した愛犬を病院に連れて行くかどうかは飼い主の兄の判断にまかされる。

私にできることは、怪我をしてるのを忘れるぐらいウマいエサをあげること。

自然のなかを一緒に散歩して怪我してるのを忘れるぐらいの感動を共有すること。

しかし、とりあえず1~2週間は安静させるのが良いようだ。


祈る、祈る、祈ると言えば、あるラッパーのリリックを思い出す。

祈りなど無駄

左胸(左手?)に仏陀(ブッダ)

右腕で弾き出すライム・コンピューター

※tha blue herb のリリックより。

この歌詞を思い出し、1つ変だと思ったのが、
祈りことは無駄と言い切っておいて、
左手にブッタを持っていることだ。

きっと彼は祈ることの可能性と
祈ることの無力さのアンビバレンツのなかで
飛んでいるのかもしれない。

祈ることでもう1つ思い出したのがレゲエだ。

ボブ・マーレーのライブ動画、熱唱動画を見ていると、
レゲエ=祈りに思えてくる。

後年のボブ・マーレーの動画で、
無力の空の下、瞳を閉じて、祈りを捧げるように、
枯れそうな声で歌い倒す、ものがある。

痛々しい..という感を抱いていたが、
だからこそ祈りなのだ!

どうあがいても痛いなかで、
他に何をどうすることもできないからこそ、
祈ることしかないからこそ、
瞳を閉じて、空に向かって、最後まで歌い倒すのだ!

愛犬の負傷でひどく動揺し、怒り、悲しみ、疲れていた私は
久しぶりにレゲエのリズムを思い出した。

リズムは生き様であり、主張であり、
信念であり、行き着いた最後の平和の形だ。

ジャマイカも日本も同じ島国だけど、
日本にももっとレゲエの文化、リズムが浸透しないかな。

街角を歩いていたら、どこからか聴こえてくるぐらいに浸透しないかな。

最近の日本の音楽には疎いので、
意外と浸透してるのかもしれないが。

ジャパレゲという言葉もあるみたいだし。

私が求めてるレゲエの形は
楽観主義的な甘く軽いものじゃなくて、
首から上を切り落とされた落ち武者が
空に向かって希望を歌うような感じ。

甘くて軽くて楽観主義的なレゲエが
実は1番好きだけど、現実がそれをさせない。

そして甘くて軽くて楽観主義的なレゲエは
実は夢でお伽話しで子供だまし..みたいな感覚になっている。

歌っている内容や声、背負っている感情などは
血反吐のように重く暗いものだけど
それをレゲエのリズムに乗せて歌うことのできる奴、
出て恋や!

とここまで書いて、レゲエって実は
骨太でタフな音楽ってことを、
肝っ玉があって、覚悟が決まっていないと
格好にならない音楽ってことを久しぶりに思い出したぞ。

覚悟が決まっていて、全身全霊をかけて、
なおかつ、レゲエのリズムを知っていて、
表現できる技術がある..そういうことなのか。

知っていて、表現できる技術があることも、
覚悟を決めるのも対極にあることながら、
同じぐらいに簡単ではない。

どんなに見苦しく、痛く、悲しく、
怒っていて、声にならないうめき声でも
レゲエのリズムがしっかりしてれば、
それは祈るになるし、絵になるし、歌になるし、
そうなれば希望になるし、力になる。

やっぱりレゲエは究極なのかもしれない。

ズッチャ♪ズッチャ♪ズッチャ♪

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